2007/12/14

“かわいそう”と言われるのが何故嫌か?

  心の三角形「“かわいそう”と言われるのが何故嫌か?」


母子家庭出身の友人A子に聞いてみた。

「片親だなんて、かわいそう」

この言葉が嫌かどうか?


A子の言葉を引用する。
「かわいそうって決めつけられるのは嫌だね。自分ではそう思っていないからね。それに”かわいそう”ってすごく表面的な台詞じゃない?かわいそうって本当に思ったんならさ、その先までもう一歩踏み込んで欲しいよね。じゃぁこの人自身は、片親をどう思っているのか?ってことをさ。そしたらかわいそうじゃないです、この親で良かったって答えられるのに」

A子は自分のお母さんのことをとても誇っている人だ。父親も母親も両方やってくれたパワフルな人だ・・・・と。


そして私自身のことを考えてみる。 

私は”かわいそう”と言われても「嫌ではない」。
嫌じゃないけど「お父さんがいてもかわいそうな人はいる」とも思ってる。

何故嫌じゃないかというと、親の離婚を経験するときに感じる苦しさとかは確かにあると思うので、”かわいそう”と思う人がいるのも分かる気がするのだ。

ただ、ここで私が言う苦しさとは、何も親が離婚したときだけのモノではなくて、両親が家庭内離婚状態だとか、いつもケンカしてるとか、親のどちらかが苦しんでいるとか、暴力があるとか、家族とうち解けられないだとか、そういう家庭に関する悩み全般に対しての苦しみ、ここがミソ。

つまり、そういう苦しみを感じることに対して”かわいそう”と思うのは、ごく自然な感情だと思うわけ。

だから、”かわいそう”って言われてもおかしくないかな・・・・・とも思う。

逆に言えば、シングル家庭で育っても自分は苦しんでなんかない、って人は、”かわいそう”じゃないのだ。

ここで気づいて欲しいんだけど、
両親が揃っていない=かわいそうっていう構図はおかしいってこと。
これは偏見だよね。

だって両親が揃っていない人がみんな”不幸”なわけでも”苦しんでいる”わけでもないもの。


もしシングル家庭だということだけで”かわいそう”と言うなら、それはちょっと待って欲しい。

理想は両親が揃っている家庭!?ということを誰でも考えたことはあると思うけど、
自分の”両親揃っている家庭=幸せ”という考えを、相手に押しつけちゃだめだよ。

A子は「かわいそうって決めつけられるのは嫌だ」と言っていたけど、まさに”片親=かわいそう”っていう構図が嫌なんじゃないかな。


どんなことでも、その人その人を見て、考えてみることが大切だよね。

2007/12/06

自分の人生を誰かのせいにするな

  心の三角形「自分の人生を誰かのせいにするな」


好きな歌によく「自分の人生を誰かのせいにするな」っていう歌詞があって、
最近までは正直、どんな意味なのかあまりピンときていなかった。

自分の人生を誰かのせいにするって、、、どういうこと?

でも最近、突然目の前の霧が晴れるようにこの言葉の意味が鮮明に頭の中に浮かんできた。

私は自立してから、特に親が別れたことで生じる不利益を被っていると感じるようになっていた(親が別れたのは私のせいじゃないのだが)。

嫌な思いをしたってだけではなく、現実としてバラバラになった両親の面倒を今後どうやってみていけばいいのか?とか…、どっちかが倒れたときに私一人で面倒を見きれるのか?とか…、祖父母が死んだら親父の生活面の面倒はやっぱり私1人で解決しなくちゃいけないのかな…とか、考えれば考えるほど未来への希望がなくなっていく感じだった。

「借金の自己破産のように…、人生も自己破産できたらいいのに。背負いきれない責任は一度全部チャラにできたらいいのに…。私が作った借金じゃないんだから」

そんな事を一瞬でも思ったことがあった。

自分がやりたいことが出来ないのは○○のせい。

○○のために自分の人生はうまくいかない。

こんな風に考えるのは簡単。そして一番楽な逃げ方。

「私が恋愛に対して潔癖になってしまったのは親の不倫のせいだし、昔の辛い記憶に怯えて家庭に無理な要求をしてしまうのも昔1人でほっとかれたトラウマのせいだ」

そうだ、私は悪くない。私はずっと自分の家庭を修復しようと頑張っていた。私はずっとお母さんとお父さんが仲良く家に戻ってくるのを待っていたんだから。。


でも、


幸せになれないのは本当に他人のせいなんだろうか。


中学生の頃に「人と比べて感じる幸せなんて脆いものだ、だから私は自分だけの自分のための幸せをつくる」と決めた。

でもそれが上手くいかないからって他人のせいにし続けて、…何かが進展するのか?

幸せかどうかは自分で決めるものだと今でも思っている。そして幸せは自分でつくれるものだと。

“自分の人生を誰かのせいにし続ける限り、自分のための幸せなんて一生手に入らない”、そう気づいた。

恋愛や勉強、仕事がうまくいかないことなんて普通なのだ。
確かに親が別れたのは私のせいではなかったかもしれないけど、それを言い訳にしてできないと思ってしまったら本当にそこで終わってしまう。

幸せになれないのは誰のせいでもない、それを他人のせいにしている“自分”のせいだった。


「自分の人生を誰かのせいにするな」

今はこの言葉の言わんとすることが痛いほどよくわかる。


私と同じ立場の子供たちにも、伝わればいいな。

「自分の人生を誰かのせいにするな、もっと強く、もっと賢く生きろ!」

理想は両親揃っている家庭?

  心の三角形「理想は両親揃っている家庭?」


知人から聞かれたこんな質問をされた。

「この前ね、保母さん目指しているっていう子と話していたんだ。それで家庭の話しになったんだけど・・・そうしたら彼女は(子供にとって)理想は両親が揃っている家庭だっていうんだよ。沙緒はどう思う?母子家庭出身の私としてはちょっと憤慨したんだけど」

彼女は訳あって両親が籍をいれていない家庭で育った。でも両親は愛し合っていたと話していた。ただ父親のほうに別に子供がいることが分かってからは、色々と大変なこともあったらしい。

私は、こう答えた。
「この前講義で習ったんだけどさ、家族の形態って文化や時代によって全然違うんだよ。妻が複数の夫と結婚する場合もあったらしい。そうすると、産まれた子供には3人くらいお父さんがいるんだって。だから、今の価値観だけで、理想の家庭を決めることはできないと思うよ。それに、別に血が繋がっていなくたっていいわけだし、私は、お互いに思いやりを持っている家族が理想だと思う。」

知人はうんうんとうなずいていた。

そこで自分のことを考えてみた。
私は父子家庭になって、理想からはずれた家庭の中で育つことになったと思うか・・・・・?

答えは、ある意味YES、ある意味ではNOだ。

両親が別れることの苦痛と、その後の両親との関係の持ち方でかなり嫌な思いをした。だから、父子家庭になったことは自分にとっては良くないことだ。だけど、両親が別れる前よりは全然気持ちが楽になったし、父子家庭になったからといって私は両親に嫌われたわけでもない。だから理想からはずれているとも思わない。

A子が言うように「一人親だって充分幸せだよ」とも思うが、その反面、やっぱり母さんと一緒に暮していたかったとも思う・・・・・・矛盾しているのかなぁ。

でも私が両親とも一緒にいてほしかったと思うのは、子供の頃から一緒に暮してきた人がいきなり消えてしまうのがイヤなわけで、決して「両親ともそろっていなくちゃイヤ」っていうのが理由じゃない。

あと、両親が別れることに自分がまき込まれるのは物凄くイヤだったな。

ただ自分に子供ができたら、絶対離婚できないとも思う。親と引き離される辛さはよくわかるし、自分でもまた同じ苦しみを味わうのかも?と考えると恐怖だ。

結論をいえば、理想の家族なんて一般的なものはなくて、家族によって色々だろう・・・・ね、きっと。

色々あっていい、
それでいいじゃん。
私は離婚はイヤ、だから自分がするのも絶対イヤ。
でも離婚した人が一般からはずれてるとも思わない。
でも、子供の気持ちを考えて行動してほしいと思う。
・・・これが私の気持ち。

不倫と子供の傷

  心の三角形「不倫と子供の傷」


不倫は男女だけの問題なんだろうか?という話を以前書いた。

家族の不倫や浮気が原因で苦しい思いをしている子供たちは多いと思う。
そして自分自身が大人になったとき、結婚や恋愛を恐れて二度目の苦しみを味わっている人も多い。

沙緒も親が不倫していたせいで、浮気や不倫を肯定する人には恋愛感情が芽生えなくなってしまった。


異性に対して積極的(女or男遊びしていたり、異性に迫ったり…)、
もしくは「付き合おう」などという言葉を吐いている人間が、
実は既婚者で子供もいると知った途端・・・その人間の顔が気持ち悪く歪んで見えて
私が夜中ずっと帰ってくるのを待っていた親の顔に見えてきてしまう・・・。

そしていつも思い出すのが

両親も誰もいなくて一人でぽつんと座っていたタタミの部屋。

真夜中にたった一人は怖くて、
つけっぱなしにしていたテレビの音。

次の瞬間目から涙が溢れてきそうになる・・・・。

さすがに人前では泣かないが、一人きりだと絶対涙がこぼれてしまうのだ。

(人前では滅多に泣かないため沙緒はクールだと勝手に思われているのだが)


何故なのだろう。
どうして今更また思い出すのか。

記憶は着実に薄れてきているというのに。

浮気や不倫を肯定する人間たちは心の中で蔑み、相手にしなければいいだけなのに。

しかし、
彼らを「人としてクズだ!」と決め付けてしまうのは非常に簡単なのだが
そう考えたからって楽にはなれない。

じゃあ許す…或いは彼らの生き方を受け止めることで、私は楽になるのだろうか?
・・・やはりそれも違う気がする。


世界中、人間のいる社会では色んな恋愛観や結婚の形があり、
必ずしも不倫・浮気が悪にはならないと私は理解している。

私の恋愛観が日本社会の多くの人間と比べて偏っているために
心の中ではどうしても消化できない部分が時折傷んでしまうのだ。

そして、
私は考えた。

私ができること・・・それは

「私自身の生き方を守ること。」

だと思う。

様々な価値観、様々な性格、様々な人間がいるのは当たり前だ。
その中で不倫をしている人間を論っては「クズだ」「間違っている」と非難しても私は前に進めない。

不倫をしている人を、自分の家族をぶち壊した実親に重ねてみても
壊されてしまった私の家族は戻ってこない。

私は足踏みをしたいわけではなくて、前に進んでいきたいんだ。

はっきりとそう思った。


「自分が守りきれなかった家族を(つまり沙緒と両親が暮らしていた頃の家族)、
 もう一度自分自身の手でつくらなくちゃいけない。」

「今度こそは大切に、しっかりと守っていかなくちゃ。」

今度自分で家族をつくるときは、私はもう、
ただ親の帰りを待っていただけの子供じゃない。

以前は主人公(父親と母親)たちが舞台で演じているのをただただ見ているだけで
舞台には上がらせてもらえなかった。

でも今は違う。
私は自分の足で舞台に上がれる。

そして自分の力で自分の家族を守ることができる。


「私自身の生き方を守ること。」っていうのは
不倫や浮気をしている人を蔑み非難することでもなく、
また不倫や浮気をする人たちを許し彼らに合わせることでもない。

自分が信じた道を進み、自分があるべきと思う家族を作り守っていくことだ。

だから私自身にも、その夫となる人にも不倫や浮気は許すつもりはないし、
子供を産むのであればそれ相応の覚悟できたときに産む。
今のところ出産したいとは思わないが、もしも子供が授かるのであれば
そのときは私と、夫と、子供の“とらいあんぐる”をしっかり守りたい。

私は命がけで守る。

夫にも命をかけてほしい。

中途半端な気持ちでは絶対子供は産みたくない。


もう二度と、
自分の家族を壊されることだけはしたくない。


私には出来る。

私なら大丈夫。

自信を持って!

第八話「親と自分を切り離す方法」

離婚・別居子供の気持ち-「別れないで」言えなかった

  第八話「親と自分を切り離す方法」


小学生のころは、親が仲直りしてくれることを祈り、お手伝いもいっぱいして、一人ぼっちの夜も我慢していた。

でも結局それが無駄だという結論に達し、親と自分は切り離して考えることにした。

親と自分を切り離すということは、自分の考えや意見は全く親に言わないということ。
離婚とか別居とか・・・そんな事は自分とは関係ないことと自分に思い込ませること。
親や家庭の影響を受けないために、自分の心と思考を一切遮断すること。

中学校から帰ってきて、家族3人で夕食を食べていても会話もはずまず、
重苦しい空気が漂っていた。

そういう時は一気に心のシャッターを下ろす。

私の視線は常に茶碗とおかずにだけ向けられる。

彼らの会話はただ私の耳を通り過ぎていくだけだ。

思考も停止して、人形のようにただ飯を食う。表情も絶対変えない。

常に親とは学校のこととか、適当な話題をしておく。

普段は学校や、友達、好きな人、洋服、テレビ番組のことだけを考える。

勉強中突然父親が大きな声をあげたとしても、一瞬びくっとなるが、その1秒後にはシャッターが下りてきてその事は考えないようにした。

私はけっこううまくできた。
シャッターを下ろすと思考や五感を遮断することに集中できるため、
以前より楽だった。

涙は流さなくてもすんだし、
胸が苦しくなったり、悲しさで気持ちが高ぶることも少なくなった。

そして、
親との会話は一気に減った。


外からの影響をシャットアウトすることにより、
私の心は短くも平穏の時を迎えたように感じていたのだが・・・
シャッターで閉ざされた私の心は
外からの影響もシャットアウトする代わりに、
自分から外へ感情を吐き出すこともなくなった。

吐き出されないままその感情は私の心のシャッターの中に溜め込まれ・・・
少しずつ増えていった。
(その後高校に入ってから爆発する・・・)


吐き出す先のない感情を溜め込んだ私は・・・
知らない間にどんどん攻撃的になっていった。

***つづく